ピリオドのこっちがわ

さまざまな記録と想像

お風呂読書

 本を読むのが好きで、できれば人生のたくさんの時間を読書にあてることができたらいいなあと考えていることが多いのに、実際には寝ている時間や、働いている時間の方が多いということが、時々嘘をついているような気持ちになって、誰かに迷惑をかけているわけでもないのにどっか不安だなあなんてことは、結局は色々な人が色々な状況で感じていることだろうから、あえて私が語ることでもないんだろうなあって、そういう社会的なジグソーパズルみたいな考え方をするようになったのは、世界中の本を読み切ることはできないからだし、だからこそ私は私が選んだものを大好きでいればいいんだと勝手に思っていて、お風呂で読書するのが好きです。

 大前提として疲労があり、会社から疲れて帰ってきてくたくたのくたになっている時にはお風呂に入るのが何故かとてもよいということ、小学生の頃から気づいていたから、湯船にあたたかい水を入れている間にあんぱんなどを食べて、更には麦茶すらも飲んで、体力を溜め込んでおかなくてはならないって気持ちになっている、私にとってお風呂読書は純粋なスポーツに近いので、準備運動のようにしておく。そうしてある程度の時間が過ぎたら手には騎士団長殺しを持って風呂にゆく。

 46℃のお湯は熱い気がするけれど入ってみるとそこまで熱すぎるというわけでもないんだけれど、そんなことより左手に持ったままの本を濡らさないようにする技術を磨いてきたことが誇らしい気もして、入ったばかりの最初のうちは全然濡らさないことが出来るし、静かな浴室で本を読んでいること、これすなわち良い気分の典型でテンプレートで、ほのかに嬉しい。満たされている錯覚がある。それは永遠ではないけれど確かに存在する。永遠も瞬間も差別してはいけないと思う。ということは全然考えずに「春樹さんが書く文章はすごい面白いなあ」と思ってページをめくっていると、汗がにじんできて目に入りそうになって手でぬぐってしまう、ここからが本当に大変なところなのだ。本が少しずつ濡れてしまう。けれどもそういうことだって私は文字が読めればそれでいいと思っているし、森博嗣先生風に言うなら「本は大事だけれど過保護にしない」だったか、その気持ちはよく分かるし好きだし、シャーロック・ホームズ風に言うなら「調べて分かる情報は記憶しない」だったか、その考えはよく分かるし大好きだったし、本文と関係のないことを書くのはもっと大好きだった。

 読書が面白いから長風呂になるという比例式でどんどん汗が出る体がめちゃくちゃ熱くなってきて頭がふらふらしてきて心臓がどばんどばんと鳴っている、私は死ぬんじゃないかと思い始めるんだけれど本が面白いから風呂から出たくない、だから2時間くらい風呂及び読書を行っていて脚の皮はふやけ、指はしわしわになり、2時間経つとお湯はぬるま湯になっているし、その頃には私は具合が悪くなって湯船の縁に腰掛けて燃え尽きたジョーみたいに真っ白になっていたりして、ダイエット効果もあるお風呂読書なんだけれども、本来なら水分補給をしながらやるのが良いらしく、水などを持って入るとなかなか良いそうなんだけれど、中学生の頃から本だけ持って雄々しく風呂読書してきた私としてはそんなお助けアイテムはいらんのだよぜはははと思ってしまう、そして風呂上がりに重力変動源になって地面を這いずりながら「うっ、死ぬ、死ぬかもしれない、のぼせちゃった」と言うところまでずっと変わっていないワンセットであるから、Tシャツ着てリビングをごろごろしながらのごろ寝読書に移行した時の、
「明日は花火大会」みたいな気持ち、本当に誰かに伝わればいいと思う。