ピリオドのこっちがわ

さまざまな記録と想像

次があるということ

 3月、4月に提出していた文の当落が発表され成果は無い。
 インターネットに接続してそれぞれのウェブサイトに表示された受賞者の大きな名前がただひたすらに眩しい。
 そして無名の無の中で私はくらげのように意識を漂わせてぼんやりする他ない。
 いつでもそうなのだけれど、そこに自分の名前がある気がしている。
 絶対に自分の名前があるはずだと思い込んでいるからもちろん無かった時、しょんぼりはする。その権利はあるものだと思っている。また駄目だったなあと肩を落とす。それからなぜ駄目だったのか自分なりに調べてみる。そこから学ぶこともあるし、明らかに選考員の好みが偏っている時などは運でしかないんだなあと思う。募集要項には書かれていない陰のテーマが幅を効かせていることもある。それは過去の受賞作を読み込んでいれば分かったかもしれない題材だった。明るい作文をお待ちしています! というキャッチコピーなのに受賞作が全部"闇"みたいな話しなんてのはよくある話しだった。反省したりひねくれたりもする。混乱したりやる気を無くしたりもする。でもまた次がある。ここ一年ほど、私は色々な賞に応募してきて、ひとつだけ身についたことがあって、それは諦めないことだったし、次があると理解できたことだ。言葉の上の励ましではなくて、本当に次があるのだ。画面が真っ暗になってGAMEOVERと表示されてあらゆる操作ができなくなる、などということはない。
 まだ次がある。
 まだまだずっと次があるらしい。
 そういうことを学び続けてきたように思う。
 今が次なんだと思うこともある。
 それでもどこかで自分が楽しいと思えることを書き続けてこれて私はとても面白かった。
 面白くなければ、やはり辞めていたんだろうなあと思う。

 今年もあと少しで半年が過ぎる。
 あっという間なんだろうなあと思っている。
 その速度の中でなんとか3作くらいはあれしたい。
 受賞したい。今年の私は賞が欲しいらしいのだ。
 賞は何の証明にもならない。ステータスとして機能してなくてもいい。しかしそれは目的や目標として機能するから好きだ。だから私は今賞がほしいと思ってしまう。それになんというか、私が(どんなにちっぽけなあれでも)獲ると喜んでくれる人がいるというのは今年一番の発見だったように思う。本来ならば書いたもの、つまりこれ(これ)で楽しー楽しーぞーと成って頂けるのが最良なんだけれど、それは個々の裁量に任せたい。楽しめるか楽しめないか、それすらも人の意思なんだから、私がどうこう言う問題でもないのだ。包丁で野菜を切ることもできるし眉毛を剃ることもできる(たぶん)。

 仕事から帰ってくると、すごく疲れている。いつも机の前で眠ってしまう。ご飯が美味しいので食べすぎてしまう。頭の中に悪い想いがばんばん浮かんでくることもある。批判精神ばかりもりもり元気になったらさっさと寝ることにしている。寝ると元気になる。そして次がある。
「君にはもう次はない」と言われる日がいつか来るかもしれない。
 でもそれは今じゃない。(という言い訳を自分にしたらちょっとおもしろくて笑っている。)
 とにかく前に進むしかない時には前に進むことにしている。
 そういうことはゲームから学んだ。
 一本道の先にはたいがいボスがいる。
 でもそこに行く以外には、シナリオを進める道がない。