ピリオドのこっちがわ

さまざまな記録と想像

旅行の準備

 あえて言ってみたい「私は旅行のことを何も知らない」と。
 友人や知り合いに話を聞いてみると皆さん色々な場所に出向いて、様々な物を見て食べて、見聞を広めたりしているらしく、そういう話から導き出される感情は何も無いんだけれど、nullなんだけれども、それはそれとして、噂に聞いた景勝地が、テレビで放映されている温泉街が、この世に本当にあるのだと知ることにはちょっとした意味があるのではないかと思っていて、要するに好奇心が芽生えるということは爽やかだと思う。
 芥川さんだったか森鴎外さんだったかよく覚えていないけれど(太宰さんか夏目さんだったかもしれないけれど)、海外旅行に行ってみることの一番の効能は「こんなもんか」と思えるところにある、という意味の文章を書いていたのをなんとなく記憶しているけれど、そういったハイテンションとは真逆の静まり返った心のかたちを得たとしても、人生には意外と役に立つということは私はよく思う。がっかりするのは嫌だけれど、実は少し安心している心だってあるはずだ。その安心がどこから来るのか定かではないし、記憶が薄まってゆくに従ってよい印象だけが残るという時間の作用も手伝って、がっかりは味わい深い。と思えばこそどこへだってゆく気になるものではないですか。

 一泊二日の旅行に出ようと決めた。
 人生は旅で、であるならば旅とは生活そのものだ、というのが旅に抱いている(そして確かめたいと思っている)意見なのだけれども、どこへゆこうか考えている間に5乃至6時間は過ぎている。インターネットに没入しながらあっちこっちをグーグルマップでワープしている間に東京近郊のめぼしい観光地を観終わっていることに気づいて愕然としている。インターネットは本当に恐ろしいほどに便利で、便利すぎて答えが先に分かってしまっているクイズをやっているような気にもなってきて「もう行かなくていんじゃないの」と思いかける。資金だってそれほどあるわけではないし、今まで泊まってきた宿と言えば一泊5千円のビジネスホテルばかりであるから、観光地景勝地温泉街の立派な星つきホテルに泊まろうとした時に私は小さな子どもになったような気まずさを覚えている。だって高いんだもん宿泊費が。どうしてお風呂に入って寝るだけの場所に2万円も3万円も出さなくてはならないのか、今だってはなはだ疑問ではあるけれども、それが旅行というものなのか、それが旅とか観光とかいうものなのかと深く考え込み、この機を逃したら一生スゴイタカイホテルには泊まらないかもしれないし「こんなもんか」のためにも一度経験してみる必要を感じてもいるのだし、一度死のうと思う。

 友人のSくんは、時々私に「よし、ここで一回死のう」と提案することがある。
 心中したがっているわけではなく、おそらく何かしらの概念をリセットしようと言っているのだと思うけれども、たとえばとても仕事が忙しくて暇がない時などに「一回死ぬよ」と言って豪華なレストランに行ったりしている。要するに死んだつもりになって(その上で行動し)新しく気持ちをやり直しているわけで、その考えは割と共感できてしまっていた。勇気がない時、あるいはリスクが頭を占めている時、それでも行動を諦めきれない時、私もいつの間にか一度死のうと思うようになっている。新しくやり始めた時、よい旅館に泊まることの意味が、「こんなもんか」をたやすく通過して「楽しかった」になる可能性だってある。物事はやってみなければ分からないから、グーグルマップで見てしまった景色から聞こえなかった音や温度や匂いや気配が、死んだ心を蘇らせることは別に宇宙の奇跡でもない。

 鞄に財布と文庫本と下着を入れて旅の準備はつつがなく終わった。
 あとは行き先を決めるだけだ。