ピリオドのこっちがわ

さまざまな記録と想像

感情の意味のなさ

 すこし感情的になったあとに、マンタとか、でっかいエイとか、全然感情なさそうな生き物などを思い浮かべ、感情いらないのではないかと思って「私には感情がないんだ」と、感情がない人間のつもりで真顔でつけめん食べたらめちゃめちゃ美味しいのどうする? 真顔でも魚介系のダシが的確に急所をついてくるのどうする? 誰がこの感情を負担することにする? 感情を負担する私と、感情のない私と二人でひとりということにして、じゃあラーメンの時はある方にお願いして、道を歩いている時はない私が担当で道端にぴっかぴかの10円落ちてたらちょっとうれしいのどうする? 嬉しいとき悲しいときはある方が担当でないときはないほうが担当すればいいと思ったけどそれって案外いつもどおりだったよね。このままがいいよね。木は木であることを考えないって太宰さんも言っていたのだからね。感情って現代社会であんまり意味がない気はやっぱりしてるけど笑ったり泣いたりのおかげで得るものは、なかった時に得るものより最後に生きた感じはするのかもしれないから、ちょっと怒ったり悲しんだり、そういうのはやっておいたほうがいいのかもしれないけれどまた落選してしまったんだ。感情はいらない、いらなくない? アメリカの人が人を脅す時に「泣いたり笑ったりできなくしてやるぞ」って言うのをゲームだか映画だかなんだかでみたことがあるけど今、「どうぞどうぞどうぞ」って思っているこの気持ちは結局感情なのかもしれないし、全くの無感情のとき何をどう考えるのか、おそらく無感情になったことがない私には結局よくわからないけれど、マンタとか、でっかいエイとか、そういうものにちょっこし憧れるのは、何も考えてなさそうだからではなく、何も考えてないということが心地よさそうだからではないのかと自問してみると、感情と思考は分かちがたく紐付いているから、人が無心でポテトチップスをめちゃめちゃ食べることは赦されてるんだけど、どうする……?