ピリオドのこっちがわ

さまざまな記録と想像

あたかも雑誌を買うかのように

 久しく雑誌というものを買っていなかったので、新しい知識の扉を開くためにも、ちょっと難しい雑誌を買ってみようと思い、月刊ムーを買ってみることにした。ムーを買う人達は、前世で何かとても重要な役割についていた人が多いように思うので、少しためらいがあったのだけれど、読んでいるうちに私も前世のことを思い出せれば重畳である。
 近所の書店のレジにムーを持っていくとき、急に臆病風が吹きすさび、表紙を裏にしてレジに置いてしまう。あたかも恥ずかしい雑誌を購入する高校生のように。書店員の方はムーを手にとり裏表紙のバーコードをピッとして、あたかも神経衰弱ゲームのように表紙を上にしてレジに置き直した。ムーという赤い字が周囲に丸見えになってしまい、私は本当に耳まで真っ赤になってしまう。あたかも野に咲く彼岸花のように。
 わざわざムーを、表にすることはないではないか。私はムー民ではないから恥ずかしいのだ。知っているだろうか、ムーの購読者をムー民と呼ぶのだ。これは読んでみてはじめて知ったことで、面白かったのであたかも彼岸花のように大笑いしてしまった。彼岸花が大笑いしているかどうかは知らないけど。
 ムーを買うことによって、私の中になんとも言えない悔しさのような気持ちが現れたので、今度はもっと頭が良さそうな雑誌を買おうと思い、あたかも文化人類学者のように、ナショナルジオグラフィック日本版を買ってみたのだけれど、ナショジオをレジに持っていく時の私はムーを買った時の私よりも、すこしだけ嘘つきだったように思う。それはあたかも、4万円の開運ブレスレットの解説文のように。
 宇宙人に友達がいる霊界案内人という、もはや何者なのかよくわからない人のインタビューと、内戦によって被害を受けたゴロンゴーザ国立公園の再生プロジェクトを並行して読んでいると、世界は本当に広いんだなあということがよくわかり、結果として新しい知識の扉が開かれ、わくわくする。知識は、他の知識と合わせることによってより真実に近づくのだ。ムーに書いてあったイギリスのUMAの正体のヒントが、2010年のナショジオに載っているということが、きっとある。それはあたかも、神経衰弱ゲームのように。