ピリオドのこっちがわ

さまざまな記録と想像

愛について

「愛について書いてもよいよ」と、迂遠な表現でとある方に言っていただいた時(具体的には言われていなかった)、私の中に浮かび上がったのはアンパンマンだった。国民的ヒーローの持つ巨大な愛。それから何故かビートルズだった。想像力についての歌。そしてキリスト教だった。おそらく愛という概念のオリジンなのではないかと私は思っている、その宗教。
 愛という言葉にそれらが紐付いてるということが、崩しがたい固定観念でかちかちに固まっている私自身を暴き、なんとなく衝撃を受け、「愛について」という言葉の印象が、きっと大普遍的テーマなわりに(物語を面白くなくさせる)有害なフィルターを私に与えていることが、なんだかケチくさいと思った。固定観念は実際のところ、私自身の判断でも解釈でもなく、生活の上で刷り込まれてきた思考・発想の様式に過ぎないから、他者に判断を委ねているのと同様で、仕事や手続きのように規則を守って作業をすることが重要になってくる概念とは違うはずの、自由な楽しみ方をしたほうがより良い各種芸術活動、およびそれらの解釈から発生する創作と、その部分的な領域を占める執筆において、拠って立つところが人の頭の中では、自分で書くことはない。
 分け与えるとか、弱きを助けるとか、無償で差しだすなどの道徳的価値観と、愛について書きたいことが不可分になっているため、それを書くことの壁を作っている。言葉から想起される最初のイメージから離れない限り、自分の中の愛については見えてこないのだし、それぞれの個別に特別なユニークだった価値観を望まれているのだと解釈し、愛について考える時、私は愛について考えてはいけなかった。広く浸透し、飽和しているとさえ言ってもよい言葉=テーマだからといって、字義通りの印象に沿うのではなく、私は私の抱えてきたおそらくへんてこな愛から離れてはいけなかったのだと結論して、した通りの愛について、を自らの中に探してみると、私は漫画をひどく憎んでいた。
 小学生の頃、季節は夏で、ところは自室のベッドの上で、私は今と寸分違わずごろごろしながら本を読んでおり、その頃特にお気に入りのメディアは漫画本だったのだけれど、物語があまりに面白く、わくわくするから激怒していて、どうして自分は漫画の世界に生まれて来なかったのかと本気で人生を呪っていた。ゲームや映画でも同様の感情を抱いたけれど、憧れのような尊いものではなく、命の危機や、世界の平和を守るために、全てを投げうってたたかうことができたら、「ものすごく人生が楽で、楽しいだろうな」と子供ながらに、子供らしく考えていた。運命があり、特殊な力があり、与えられる試練を乗り越えるだけではらはらし、成長し、新しい力を身につけ、仲間が増え、恋をし、充実し、感謝される世界は、ただ漫然と生きているだけの、何も起こらない、目的のない世界に住んでいる私には、充分に憎悪の対象であり、(それを人生の役に立てようという意識すら持てず)、物語のキャラクターを本気で妬み、羨んで、それでも離れられない気持ちは、やっぱり愛だったんだと思ったし、それが屈折していそうなことに今更気がついた時、愛について、を考えた時、私が上手く書くことができなかった理由を、再発見してもいる。
 物語に対しての愛が、おそらく正しい形を取り始めたのは、私が成人してからで、人に感情を抱くのと同様に、物語との距離のとり方を、勝手にどこかで学んだのだと考えている。ひたすら没入するような読み方から、枠組みと細部を検分し、カテゴライズし、物語よりもそれを生み出した作者に対して称賛を送るようになった時、私はようやく自我と未分の物語世界から、現実の世界に足を踏み入れたのだと思う。それが人間として成長するということなのだとしたら、これもいささか貧乏くさくある気もするし、現実を生きるということは、そもそも本来的に生臭いことなんだとも思うし、そのことを学んだのも結局は漫画からかもしれないと考えてみると、時々あの頃の激しい怒りが懐かしくもある。
 運命だとか、世界を揺るがす悪だとか、力だとか、架空の存在を、在るものとして嫉妬していた私は、なんだかよくわからない愛のパワーによって、半分だけ、物語の中に生きていた。そして一方的に傷ついていたことは、私にはかわいい。

 愛について、書こうと思ってみた私には、愛について思っていることや、考えていることがあまりにも少なかったので、他者の愛について考えてみるならば、愛というものは全然この世界に無いのではないか、という風に観察された。魂の近接した二人の眼差し、から感じる特別な雰囲気、それはある時期においてそういう風に見えるというだけのことで、実際に愛がゆき渡っているかどうかということは見かけの上でも言葉の上でも理解しようがなかったし、それは雪みたいに消えることが容易だ。極論をすると観察できないものは存在しないのと同じ意味しか見出せなかった。幽霊のようなもので、人の心も同様に、あるのだかないのだかよくわからないから、人の心があるものだという根拠の上に成り立っている愛があるのかないのかと言われれば「ある見込みがある」とか「あるかもしれない」くらいのものだということを見てきた。そしてそのように観察されることが比較的多いであろうから、愛を信じなさいということが言われるんだろう。以上の経験が根底にあって、普通に生活をしていたら愛を信じることは容易ではないから。
 それでも愛について書くということは、やはり愛を肯定することでもあるはずだから、肯定的な愛について、それがある場合のことを思い浮かべてみると、もう動物や、ゲームや、つけめんに対する反射的で圧倒的な肯定力は、どう考えても無償でしかなくて宇宙につながっていた。そこには駆け引きが存在しない。あるか、ないか、だけだったから、あった時の愛を素直に信じている。